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■ 東北ウーマンインタビュー


ダンスと共に、「心」を教える

ダンスと共に、「心」を教える
元タカラジェンヌ・青葉みつるダンシングスタジオ主宰
青葉みつるさんインタビュー

山形県初の「タカラジェンヌ」であり、青葉みつるダンシングスタジオの主宰である青葉みつるさん。宝塚歌劇団での現役時代のことや、ダンス講師としての情熱や思いについてのお話をお伺いしました。

 

どうしても宝塚歌劇団に入りたかった

 

千葉 )青葉さんは山形県初のタカラジェンヌとお聞きしたのですが、なぜ宝塚歌劇団を目指そうと思ったのですか?

青葉 ) 両親が芸事が好きで小さい頃から芸事に触れる機会が多くありました。中学2年生のときに宝塚歌劇団の公演が山形であり、公演を観て「絶対宝塚に入る」と決めました。

千葉 ) 宝塚音楽学校に入るために、何か特別な習い事などをされていたのですか?

青葉 ) ピアノとバレエとそろばんもしていました。でもずっと続けられたのはダンスだけでした。
中学校では体操部に入部したいと思っていたのですが、私が入学する前に部員の全員が辞めてしまったため体操部がなくなっていたんです。それでも私は体操部に入って踊りたいと強い思いがあったので、中学1年生の時に自分で体操部を立ち上げたんです。

千葉 ) 中学1年生のときに自分で部活を作るなんてすごいです。当時はパソコンなどもない時代ですが、山形から遠い宝塚音楽学校についてどのような方法で情報を集めていたのですか?

青葉 ) 中学生だった当時はまだ新幹線もなかった時代で、関西のことは何も情報が入りませんでした。とにかく何も分からない状態で、宝塚歌劇団の山形公演を観てからずっと「どうしたら宝塚に入れるんだろう。」と考えていました。
ある日、妹が本屋さんに行ったら宝塚特集が少女雑誌に載っていることを教えてくれました。その後すぐ雑誌を買いに行き、その特集には宝塚歌劇団での生活のことなどが載っていて、いちばん最後のページに宝塚歌劇団の住所が書いてあったので、自分でその住所に「宝塚歌劇団に入りたいのですが、どのようにしたらいいのでしょうか。」と手紙を書き出しました。そしたら、「2月くらいに願書が出るので願書が出たらお送りします。」と返事が来ました。

千葉 )どうしても入りたいと思って自分で行動するってすごいですね。私が中学生のときには絶対に出来なかったと思います。

青葉 ) インターネットがない時代だったので新聞や雑誌しか情報を得る手段がありませんでした。幸いにも特集が雑誌に載っていて「絶対にこの機会を逃したくない」と思いました。

 
全く知らない場所で悩みながらも進んだ現役時代

 

千葉 ) 宝塚音楽学校は入試倍率が高いことで有名ですが、1回で合格されたのですか?

青葉 ) 1回で合格しました。そして、ダンスでは1番で合格しました。
全然宝塚のことが解らなかったため、怖さが解らなかったんです。私は山形のズーズー弁で方言が強く、向こうに行って初めて関西弁を聞いた時は何を言っているのか分からなく、最初は人と接するのが怖かったです。

千葉 ) 「山形に帰りたい」と思うことはありましたか?

青葉 ) 最初は言葉が通じなくてお芝居の時間がとても辛くて、帰ろうかと思いました。すごい意気込んで行ったのに、現場の状況に馴染めなくて。5月のゴールデンウイークの連休のときに1週間くらいお休みがありました。そのときに山形に帰ってきて「もう学校には行きたくない」と思いました。家族には学校はしばらくお休みだと嘘をついて、学校には「祖母が亡くなって」と嘘を言ってしばらく学校を休んでいました。ある日、学校から心配の連絡が来ました。家族は私が嘘をついて学校を休んでいたことを知り、家族会議をしました。家族と話し合った結果「兵庫に帰ってちゃんとまた学校に行きます。」と決意を固め宝塚に戻りました。

千葉 ) 現役時代の大変だったことや楽しかったことを教えてください。

青葉 ) 大変だったことはやっぱり人付き合いですね。関西の人は山形がどこにあるのか知らないので「山形って北海道のどこにあるの?」などと聞かれていました。なので、話もなかなか弾まなかったりして、1年くらいは本当に苦労しました。 宝塚には予科と本科があるんですけど、本科になったらお友達も増えて楽しくなりました。やはり、最初の1年は厳しかったですね。

千葉 ) そこからどのようにして多くの人とつながるようになったのですか?
青葉 ) 宝塚市の近くに、当時の山形放送支社長さんが住んでいて、県人会に招待されました。そこでいろいろな人を紹介してもらいました。それから、初舞台踏んだときに「山形初のタカラジェンヌ」と地元の新聞に載せていただきました。そうしたら山形のいろいろな人から連絡が来るようになり、だんだん違う世界が見えてくるようになりました。

 
「このままではいけない」が原動力となった

千葉 ) 宝塚歌劇団を退団されたあとたくさんの選択肢があったと思うのですが、なぜ山形でダンススタジオを開こうと思ったのですか?

青葉 ) 宝塚の東京公演のときに、迎えの車に乗っていたらトラックに追突されその事故により、1ヶ月間公演を休み入院をしました。退院したあとも後遺症がひどく、ほとんどダンスが出来ない状態になりました。その状態で1、2年頑張っていたのですがやはり後遺症に悩み退団を決意しました。辞めてどうしようかと考えていた頃、父が体調を崩していて、「もし宝塚を辞めるんだったら帰って来て実家の靴屋を手伝ってほしい。」と言われました。帰るのだったらもうダンスをすることや今までのキャリアを諦めようと思い、山形に帰ってきました。


 

青葉 ) 山形に戻ってきて少し落ち着いてきた頃、娘がちょうど4歳になる頃にバレエを習わせるために母がバレエスタジオに連れて行きました。スタジオの先生に挨拶に行ったときに、「もう1度やってみない?」と声をかけてもらったんです。チャンスだと思い、リハビリのためにバレエから始めました。踊り始めたら今のままではいけないと感じ、ダンスをやり直したいと思い子どもを両親に預け、ニューヨークに短期留学で5回行きました。 アメリカでジャズダンスを学び、知人に「ジャズダンス教えてほしい」と言われたことがダンススタジオを開いたきっかけです。

千葉 ) 山形でダンススタジオしていて良かったと思うことは何ですか?

青葉 ) 個人的には両親もいるし、実家のお店の従業員さんもいたので娘を育てるのにはとても良い環境でした。山形ではなかったら仕事と子育ては両立出来なかったと思います。

 
「単なる習い事」では終わらせたくない


千葉 ) 今ダンススタジオをやっていて嬉しく思うことは何ですか?

青葉 )小さい頃から習いに来ていて、小学生になっても芽が出なかった子が中学生になり大人クラスに行ったときとても伸びることが嬉しいです。

千葉 ) そうなんですね。

青葉 ) だから私は絶対に生徒を見捨てることが出来ないし上手くない子でもとても変わります。1回芽が出ると、どんどんどんどん上手になります。伸びるきっかけがいつか分からないというだけで、それを知らないで辞める子はすごくもったいないと思います。伸びるのを待たずに焦って辞める子がたくさんいます。

千葉 )習い事は伸びないからという理由で辞める人も多いですよね。

青葉 )単なる習い事ではなく、ダンスを通して色々なことが学べるし1つのことを追求していくと、必ずどこかで繋がると思います。

千葉 ) そうですね。

青葉 ) 例えばあなたたちは大学で勉強している。もう一人の子はダンスのことしか知らない。だけど、一つのことを追求していれば必ずあなたたちと一緒のところに行くと思います。だから一つのことを追求するってことはとっても大事なことだと思います。 だから習い事だけどもダンス以外にももっともっと大切なものを学べます。

千葉 ) 人とのつながりとか、マナーとかですか?

青葉 ) そう。色々なことが学べると思うから、だからそうやって教えてきました。 生徒の最高年齢が70代なんです。最年少は幼稚園生か小学校1年で、幅広い年齢層になっています。でもみんな生徒なので、分け隔てなく、同じように接しています。子供であってもやっぱりいろんなことがあるから大人と同じように扱うし、大人の人でも生徒は生徒だからちゃんと、いくら年上でも生徒として扱うので、幅広い年齢層と接することができる。それはとてもいい意味ですごく刺激的です。

千葉 ) 今、先生をしていて意識して「こう教えよう」とか「これを教えたい」ということはありますか?

青葉 ) ダンスを小さい頃からずっとやってきて、若いうちは体のこととかはあまり考えていませんでした。ただ踊っていればいいし、上手くなればいいという考え方でした。教えてるうちに体の使い方とか、「こういうことをすればこういうことになるんだ」ということがだんだん分かってきました。今、年配の生徒が多いのですがそれでもうちのダンススタジオはジャズダンスをしています。簡単な踊りじゃなくて、年齢関係なく、年配の生徒も若い子と同じようにダンスをしています。中学生と60代70代も一緒にレッスンをしています。中学生も年配の生徒も全員同じレベルの振りを踊ります。お互いの年代が刺激し合いながらダンスを踊っています。
体を使っていれば、70代になっても80代になっても使えるということを教えたいと思っています。エクササイズを行ったときと行っていないときの違いや1週間体を動かすことを休むと体はどうなるかなど、エクササイズがどれだけためになるかを丁寧に教えています。
また、子ども達に対しても体や筋肉の使い方について教えています。どんなに激しい踊りでもケアしていれば安全に出来るのですが、基本を怠ってしまうと大変なことになります。実際にそのような人も見ているし、体は長く使うものだから無理をせずに踊ることを教えています。

千葉 ) やはり「基本」が大切なのですね。

 

<昨年夏の東根まつりで>

千葉 ) 青葉さんにとって、東北の良さはなんですか?

青葉 ) のんびりしているところですね。今まで関西や関東にも住んだことがあるのですが、山形の、のんびりしているところが好きでもう他のところには住めないですね。

千葉 ) 最後に、ダンスをしていて幸せだと思うことはなんですか?

青葉 ) ダンスが趣味で、大好きなダンスで仕事ができて、生活が出来ることがとても幸せです。

千葉 ) 1つのことを追求して、それをお仕事にされていること、とても尊敬します。 本日はありがとうございました!

 

 

 

profile
青葉みつるさん
 

宝塚歌劇団出身
一般社団法人 日本ジャズダンス芸術協会オーナー会員
山形県支部長
山形県芸術文化協会理事
山形市芸術文化協会理事
山形県洋舞協会幹事

青葉みつるダンシングスタジオ主宰
幼少よりバレエ、中学校で新体操を始める。中学校卒業後、宝塚音楽学校に合格し、1966年山形県初の「タカラジェンヌ」となり、その後、雪組に所属。数々の作品に出演し洋舞・日舞・声楽・演劇など舞台に必要なジャンルと「清く正しく美しく」の宝塚のモットーを叩き込まれる。1974年寿退団後、山形に戻りNYの「ALVIN AILEY AMERIKANN DANNCE CENTER」や「BROADWEY DANCE CENTER」に短期留学を重ね1981年8月スタジオ設立。これまでの公演回数36回、発表会7回、ディナーショーやイベント出演、その他振付などを行う。

【主なもの】
1992年べにばな国体の開会式・閉会式の演出・振付・巡回指導。2001年山形ミュージカル「花咲平は夢の里」の脚本・演出・振付。国民文化祭山形2003の演出・振付、開会行事ではオープニングパレードを務める。

【主な受賞歴】
1989年山形市芸術文化協会賞
1989年・1990年・1997年・2002年・2007年山形県民芸術祭優秀賞
1993年・2014年山形市芸術文化協会特別賞
1993年国民文化祭岩手’93文部大臣賞
1997年国民文化祭香川’97国民文化祭実行委員会会長賞
2000年「山形文化振興基金賞」
2008年度山形市民文化賞受賞
2014年山形県民芸術祭準大賞
その他、ダンスコンクールグランプリなどを受賞。

【表彰】
2009年一般社団法人日本ジャズダンス芸術協会
2015年山形県教育功労者表彰

【感謝状】
1992年べにばな国体
1992年花笠まつり
1997年国民文化祭香川
2002年国民文化祭鳥取
(取材:2018年7月)
interviewer
千葉えりか

<編集後記>
「単なる習い事ではない」という言葉が心にとても刺さりました。 なぜなら、私もそう思うことがあるからです。習い事ではないのですが、学校の授業などで技術や知識を学ぶだけではなく、人間関係だったり、マナーであったり「心」の面も学んでいることが多いと感じるからです。青葉さんのお話を聞いて、この学生時代の経験は必ずこれからの生活に活きると感じたので、途中で投げ出したりせずにしっかり最後までやろうと改めて決意をすることができました。 私も青葉さんのような、1つのことを追求し続けて、輝ける素敵な女性になりたいです。