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■ 東北ウーマンインタビュー
今日、そしてこれからも。閖上であの日を語り継ぐ
今日、そしてこれからも。閖上(ゆりあげ)であの日を語り継ぐ
閖上の記憶 語り部/閖上中学校遺族会 代表
丹野祐子さんインタビュー
3.11東日本大震災の翌年、12年4月22日に旧閖上中学校の入り口に誕生した津波復興祈念資料館です。
震災から1年が経った12年3月11日、遺族会は中学校の敷地内に慰霊碑を建立。自分達が確かにそこに生きてきた「記憶」、そして津波によって多くのものを失った「記憶」を整理する場として『閖上の記憶』が建設されました。今では地域住民をはじめ、世界中からのべ10万人近くの人々が集う場所になっています。(以下閖上の記憶)
丹野 ) 震災当時、私には15歳の娘と13歳の息子・公太(こうた)がいました。3月11日は、たまたま閖上中学校の卒業式で、娘の保護者として出席していたんです。卒業式が終わり、自宅の隣にあった公民館で謝恩会をしていたときに地震が発生しました。地震が来たときは、公民館が避難所になっていたので、私と娘はそのままとどまることができましたが、息子は卒業式が終わるといつもより早く自宅に帰っていたので、友人の家に遊びに行っていたんです。避難勧告を受け、友人と一緒に中学校のグランドに逃げたそうなのですが…合流できないまま、地震から1時間6分後に津波が発生。目の前の中学校にいたはずの息子の姿を見失ってしまいました。 息子の姿を確認できないまま、気付いた時には閖上の町が全部津波にのまれていました。主人の両親も行方が分からなくなり、息子を含めた3人の姿は町中どこを探しても見つけられませんでした。3人の姿が確認出来たのは、遺体安置所です。
菊池 )遺体安置所で息子さんの姿を発見したときは、どんなお気持ちだったのでしょうか?
丹野 )「なぜ、息子が犠牲になって自分が生きているのか?」。身代わりになってやれなかったことが悔しくて、悲しくて、たまりませんでした。地震が発生し、津波警報が出ていたにも関わらず「津波は来ないだろう」と思い、多くの人が逃げませんでした。あの時逃げていれば、息子は助かったはずのに。そんなことを考えていると、生きているのも辛くて…。毎日どうやって死のうかと考えていました。 そんな中、娘は自分が希望していた高校に合格し、憧れの制服を着て楽しそうに学校に通っていました。主人は職場が仙台だったため、震災後も同じ仕事を淡々とこなしていました。私は閖上のスーパーで働いていたので、家や息子だけでなく、働く場所も失いました。震災直後から周りは動いているにも関わらず、自分は何も動けない。どうしたら良いのかと悩む日々が続いていましたね。
菊池 )「生きているのもつらい」という状況の中で、閖上の記憶を立ち上げたのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
丹野 )はい。そこで初めて遺族に「一度集まってみませんか?」と連絡をしました。初めは14名の生徒の遺族のうち、半分以下の方しかいらっしゃいませんでしたが「子供たちのために名前を刻んで慰霊碑を建てたい。賛同してくれなくても、一緒に名前を刻みたい」と伝えたところ、「やめてくれ」という遺族はいませんでした。震災が起きた日、息子は中学校を目掛けて走っていたという情報があったので、ゴールを作ってあげたいなという気持ちもあったんです。こうして震災の翌年である12年3月11日に慰霊碑は建てられました。
丹野 )当初、慰霊碑は中学校の敷地内にありましたが、周りは水が出るところもなく、供えられたお花も、千羽鶴も野晒しの状態でした。「慰霊碑があっても、人が集まらなければ意味がない」という先生の言葉で、日本国際民間協力会(NICCO)協力のもと、慰霊碑の近くにプレハブを作ることになりました。作るといっても、ただのプレハブではありません。慰霊碑を守る社務所、閖上の方たちが立ち寄れる場所、そして震災を伝える場所として地元の人が気兼ねなく集まり、あの日を語ることができる復興記念資料館として「閖上の記憶」と名付けられました。
菊池 )閖上の記憶では、様々なプログラムがおこなわれていますが、どのような活動をおこなっているか具体的に教えていただきたいです。
丹野 )現在はおもに、閖上案内ガイド、語り部講話、語り部の会、出張語り部の4つのプログラムを実施しています。 閖上案内ガイドは、被災地に想いを寄せて訪れる方々に向けて、閖上の案内人(被災された地元住民)が一緒に閖上をめぐりながら、閖上のこと、震災のことをお伝えするプログラムです。 語り部講話は「閖上案内ガイド」と同様に、被災地へ想いを寄せて訪れる方々に向けて、「語り部講師」が「閖上の記憶」館内で、震災のこと、いのちの大切さをお話します。 語り部の会は、震災当日どのような体験をしたのか、地元住民の方による「あの日の語り」です。語り部さんご本人にとって心の整理をする場であるとともに、参加者が命の尊さ、防災の大切さなどを学ぶ貴重な機会です。 出張語り部は、被災地から全国へ 、語り部の”生の声”をお届けし、震災を風化させないために、また東北へ行きたくても行けない人たちのために14年から始まったプロジェクトです。
菊池 )多くのプロジェクトをおこなっているのですね。実際には、どのような方が閖上の記憶にいらっしゃいましたか?
菊池 )震災後、地域の状況や住民とともに発展してきた場所なのですね。
天井には、クラウドファンディングでご支援してくださった方の名前が貼られている。
菊池 )以前、息子さんに毎月少年ジャンプを買っているという記事を読んだことがあります。部屋がいっぱいになっていましたね。
丹野 )そうなんです。(笑) 部屋の床の底が抜けてしまいそうなくらいたくさんあります。最初は棺に置き、次は仏壇に供え、新しいジャンプを買うと、前の号は仮設住宅の押し入れに積んでいました。震災前は、古い漫画を勝手に処分したこともあったのですが「本当は読み返したかったのかもしれない」と思い捨てられません。月曜が来ると生協で、売り切れていればコンビニかショッピングセンターの書店へ買いに行きます。 5月末に、自宅を再建したのですが、2階7畳間を息子の部屋にしました。ジャンプを並べてみると3号分が欠けていると気づき、バックナンバーを注文したこともあります。息子は生きていれば20歳なのでジャンプは、今年で終わりにしようかなと思っています。
菊池 )そうなのですね。亡くなった息子さんは、凄く喜んでいると思います。丹野さん自身のこれからの活動について何か考えていることはありますか?
丹野 )これからも閖上の記憶の語り部として、あの日のことを語り続けたいですね。震災から7年7ヶ月が経っても、思い出したくない人はまだまだたくさんいます。だからこそ、私はかつてあった閖上の町を、息子のことを『記録』に『記憶』に残していきたいんです。工事が進み、新しい人が住み、町が全て新しくなることが復興だとは思いません。ですが、1人の住民としてその姿を眺めつつ、あの日のことを語っていけたらと思います。
菊池 )日本各地で災害が起こっている今だからこそ、震災の教訓を伝える意味があるのですね。
丹野 )私自身、息子を助けてやれなかった後悔はこの先も消えることはありません。「津波は来ないから大丈夫」。この言葉を言っていなければ、今も生きていたかもしれない。私にとって語り部の活動は、我が子への思いでもあります。災害はいつ、どこで起こるか分かりませんし、人は経験したことがないものを想像することはできません。二度と同じことを繰り返さないためにも、あの日何が起こったかを大好きな町、閖上で伝えていきます。
菊池 )震災と向き合う覚悟が強くなりました。私も丹野さんのお話を胸に止め、過ごしていきます。貴重なお話を本当にありがとうございました。
〒981-1213
宮城県名取市閖上5丁目23−20(閖上メイプル館南側)
開館時間(2017年12月現在)
月水木 10:00-15:00(火金休館)
土日祝 10:00-15:00
※月命日の11日は曜日にかかわらず開館
※毎月第3日曜は13時開館
閖上の記憶HP: https://tsunami-memorial.org/
当時、閖上中学校1年だった長男・公太くん(当時13)を失くし
「子供が生きた証を残したい」と慰霊碑を建て、
復興記念資料館 閖上の記憶を立ち上げる。
語り部として閖上地区を拠点に
あの日起きたこと、命の大切さを語り継いでいる。
(取材:2018年7月)
出身地:宮城県石巻市
趣味:くるりの音楽を聴きながら電車に乗ること
東北の好きな所:東北に住む人の優しさ、あたたかさ
モットー:つながりは力
ひとこと:東北で得た「つながり」は大切な宝物です
そんな私の気持ちを変えたのは、丹野さんをはじめとする語り部のみなさんです。震災での経験を他者に語るのは、決して簡単なことではありません。ですが、また同じ過ちを繰り返さないために、教訓を後世に語り継ぐ姿。遺族を失くし、悲しい経験をしたにも関わらず、涙を流しながら懸命に語る姿に胸を打たれました。今回、改めて取材させていただいたことで震災と向き合う覚悟がより強くなりました。読んでくださった方々に、少しでも災害に対する関心を持っていただけたら幸いです。
「私はかつてあった閖上の町を、息子のことを『記録』に『記憶』に残していく」。丹野さんの思い、生きる姿がきっと天国の公太君にも届いているはずです。私自身も、丹野さんのお話を心に止め、生きていきます。